ヒト

都市機能の外への広がりを抑えた
正しいコンパクトシティのあり方。
街のリノベーションを提唱する。

代表取締役 社長

髙橋 剛

タカハシ ツヨシ
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遊佐町の吹浦で創業し、2018年に70周年を迎えた丸高。現在では山形や仙台にも支店を展開し、南東北地方全域にて建築と土木の両方に携わる。5代目社長として10年目を迎えた髙橋剛は、大事にしているのは時代と地域性を読み取る目線だと述べる。

戦争から戻ってきた髙橋の父親が、1948年に丸高を創業した。戦地で土木関連の仕事をした経験から、土木の分野で起業した。やがて、1964年の東京オリンピックを前に、社は酒田へと進出。当初は後発の土木業者に過ぎず、港の建設や治山工事などを担当していたが、高度経済成長期に建設業の需要が増したことを受け、土木から建築へと事業を広げて会社の規模も拡大した。5代目の高橋剛はこう語る。

「先の展望は大切なんですけど、先読みをしすぎると意外とうまくいかないんですよね。空振りしてしまう。継続的に自分たちができることのベースを作り、タイミングを読みながら勝負をかける。そういう意味で潮目を読むことが大切なのかもしれません」

ひとつの案件は大抵の場合、3年から5年かけて完了する。例えば、コンペから始まる案件は、着工までの期間がより長くなる。予算の都合で変更点が多くなる場合も同様だ。先を見通しつつ、着実に仕事を行っていくこと。建設業界における時間感覚を学んだ高橋は、「会社として勝負に出るタイミングはそろそろ」だという。

酒田に培われたオープンなマインド

「ゼネコン形式で何でも請け負う建設業者には、負の遺産もたくさんあるものです。うちは今年で70周年ですが、不良債権もたまっていましたし、いらない土地や使わなくなった機材、使わないであろう資材など、不要なものがたくさんありました。社長になったこの10年で、そうした負の遺産を徹底的に整理しました。今はほとんど無駄がなくなった状態です。身軽に色々とできる素地を作ったんです。これからの世の中をどうつくるか、未来に対応するために必要だったからです」

まず髙橋は、酒田という街の特性、発展してきた背景について説明する。そこには間違いなく、酒田の未来を思い描くためのヒントが隠されているからだ。

「酒田は北前船が有名ですよね。港町として江戸時代に発展したわけですが、全国でも珍しく、商人たちが自治を守ってきた町なんです。三十六人衆という商人の自治組織が結成され、町の発展に寄与してきたといわれていますが、その三十六人衆も大半が酒田出身ではなく外からやってきた人々でした。加賀商人や関西に店を持つ商家が酒田にも出店し、やがて酒田に拠点を移して町の繁栄を支えてきたんです」

ただ船の往来があって町が栄えたわけではない。交易が生まれたことで外から資本が流入し、同時に北陸や関西などから多くの人々が移り住んだ。それに伴い、情報や文化も入ってきた。酒田の人々の多くが、新しいものに対してオープンなのが地元の特色だと語るのはこのような背景に由来する。

町の中心にコミュニティを形成

そして、町の繁栄を支えるために商家は本町に軒を連ね、酒田の中心街を形成した。文化が育まれ、町が築かれるこの流れを見直すことは、高齢化と人口減少が進むこの国で、さらにはその傾向が顕著に生まれていると指摘される庄内地方で、手を打つためのヒントになる。

「統計上、20年後には人口が3割減るといわれています。酒田の人口は今10万3千ほどなので、20年後に7万ぐらいになるわけです。有機体にはなんでも中心部があって、それによって一つの形が保たれていますが、町も同じです。ドーナツ化が起こっている酒田を生まれ変わらせるためには、中心部に人が集まる仕組みを作る必要があります。人口が減りながらも庄内の各地に人々が点在する現在の状態では、町としての求心力は失われ、手を打たなければ文化も経済も失われてしまうでしょう。手遅れになる前に、地元の建設業者と手を組み、行政も説得して町のリノベーションを提唱しています」

髙橋が考えているのは、300人から500人程度の人々が暮らすコミュニティを町の中心部にいくつも形成する方法。例えば、既存の商店街を中心に、中心街の空き家となった建物をリノベーションするなどして町を蘇らせるのが一つの方法であり、あるいは集合住宅を新築して、そこに周縁部で土地を持つ人々やIターンやUターンでやってくる人々を住まわせるのも一つだ。重要なのは、そうしたコミュニティのそれぞれが、行政支援に頼ることなく自助努力で維持できる仕組みを作ることだという。

「少子高齢化が進む社会ですから、うちの会社でも社員には70歳まで働いて欲しいと言っています。しかし、歳をとってから若い世代と同じように働くのは難しい。体力的な衰えもあるので当然です。であるならば、仕事をうまく分担して、無理のない形で働ける仕組みをつくればいいんです。人口が減って、やがて税収が下がることもわかっているわけですから。町のコミュニティでも、高齢者を中心に3万円とか5万円程度でも月々の収入を生み出せる仕組みを整えれば、未来に向けて健康的で建設的な議論が生まれると考えています」

鳥海山で天の国の体験

建設会社を率いる身として髙橋が町のリノベーションを提唱する背景には、もちろん酒田と鶴岡という庄内地方の2都市が消滅可能性都市の上位に名を連ねており、東京オリンピック以降の経済の停滞や衰退を考えると、「今のまま5年も放っておいたら酒田は戻れなくなる」という切実な危機感がある。しかし、それだけではない。話を聞いていて感じるのは、庄内が本当に魅力的な場所であり、実際にここで暮らすことの幸福を人と共有したいという思いだ。

「酒田や遊佐の人間にとってはまず、鳥海山の存在が大きいですね。二ノ滝やブナ林などの景色は爽快だし、綺麗な湧き水もあります。私は何度となく登ったことがありますが、これまでに一度だって同じ景色だったことがない。季節によって緑だったり赤だったりと葉の色は変わりますし、天候も違えば日の射し方も変わる。そして、10回に1回ぐらい、言葉を失うような絶景にも出会えます」

この景色の描写を聞くだけでも魅力的だが、鳥海山の頂上での体験を聞くと、やはり神が暮らす山なのではないか、そんな想像にゾクゾクしてくる。

「鳥海山は5000年前だかいつだかに山体崩壊したことがあります。頂上に立つと、山頂が崩れて、『ずずっと土砂があっちの方向に滑って行ったんだな』と見てわかるんです。私は毎回わざわざ折りたたみ椅子を担いで登るんですけど、頂上に椅子を置いて、しばらくぼーっとその様子を見るんです。岩に座って見るのと椅子では全然違うんですよ。平らな岩でも座り心地はよくないから、ぜひ椅子を持って登ってみてください。椅子に座ると、そこにちょっと自分の空間ができるんです。

頂上に行くまで、山はすごく高くて広く見えるんですよ。普通だったら200メートルも離れると声も聞こえないでしょ。ところが鳥海山の頂上に行くと、500メートル以上離れていても下の方で歩いている人の声がよく聞こえるんです。こっちからもあっちからも。もちろん天候や風にもよるので、これも10回に1回ぐらいの割合ですが、山頂で山じゅうの声が聞こえる感じ。神さまってこんな気分なのかな、なんて体験ができるのも鳥海山の魅力です」

幸福創造の意識を共有する

カヤックを所有する髙橋は、会社の前の川から山居倉庫を目指し、最上川を回ってぐるっと一周2時間のコースを楽しむなどの川の魅力、6月の嵐の後に北陸方面から辿り着いた流木でする贅沢な焚火の魅力も存分に聞かせてくれた。それも、庄内の魅力を多くの人と共有したいという思いからに違いない。

「インバウンドの開発も進めたいです。外国人旅行者にも庄内の魅力を体験してもらって、じわーっとファンを増やせたらいいですよね。いずれ住む人も増えてくれれば、かつて酒田に別の地方から人がやってきて町を繁栄させたように、外国の人たちと町を発展させられるかもしれない。そのための国際人の教育というのも取り組んでいきたい課題の一つです」

自らの座右の銘であり、社内でも共有する社是が「幸福創造」だ。仕事においても日常生活においても、何かを選ばなければいけない瞬間というのはある。その時には、自分が幸せを感じられる方向を選んで進みたい。お金と食べ物さえあれば幸せかというと、決してそんなことはない。何に満足を得られるか、どこに喜びを感じられるかを見極めて、つまりは自分が何を求めているのかを見つめ直すことで、幸せにたどり着けるのではないか。町のリノベーションを目指し、新しい人々を受け入れる高橋の姿勢を裏打ちしているのは、そんな意志なのだ。

代表取締役 社長
髙橋 剛 タカハシ ツヨシ

1956年、山形県酒田市出身。酒田南高校を卒業後、武蔵工業大学(現・東京都市大学)工学部に進学。同学大学院を修了後、1981年から7年間、設計・工事全般技師として山形県土木部に勤務。同年4月に丸高に入社し、取締役などを経て2009年より現職。(一社)山形県建設業協会 酒田支部の理事、山形県港湾空港建設協会の会長、酒田まちづくり開発株式会社の監事など建設関連の団体のみならず、酒田地区少林寺拳法会や黒森歌舞伎保存会などでも役員を務めている。

株式会社丸高

土木事業を中心に創業した1948年当初から、やがて公共建築や個人住宅の建築にも活動の場を広げ、地域密着型企業として地域づくりに携わってきた建築業者。近年では、さらにその領域を拡大し、「住まいづくり」から「人生づくり」も考慮しながら、福祉介護事業への参入などの新しい分野へのチャレンジも積極的に行なっている。
山形県酒田市下安町41-1