ヒト

創業理念として受け継がれる
「天の時」「地の利」「人の和」を
正しく実践することが重要。

清川屋 代表取締役社長

伊藤 秀樹

イトウ ヒデキ
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創業1666年(寛文6年)の老舗、清川屋。時代ごとに茶屋、旅籠、雑貨店、土産物店と形態を変えながら山形の魅力を発信し続け、現在は、土産物店としての営業と地域の特産品を商品化するプロデュース事業を同時に行なっている。継承と革新がこの地でどのように実践されているのか。13代目当主である社長の伊藤秀樹に話を聞いた。

「かつて湯野浜温泉には、30軒ほどのお土産屋さんがあったのですが、今は何軒かご存知ですか?」。インタビューが始まるとすぐに、伊藤はこちらに質問を投げかけてきた。答えは、0軒だ。「もちろん頑張っている旅館には売店が併設されていて、地元のお土産が売られていますが、専門の土産屋はゼロ。湯野浜温泉に店舗はありませんが、なぜうちが現在残っているかというと、時代の流れに合わせて変化してきたからです。そのことを社員たちが理解し、新しい発想を生み続けることが重要です」

江戸時代の初期に旅籠として創業し、庄内を動く人の流れを、あるいは開発によって街が変化していく様子を見ながら、業種や拠点を変えながら清川屋の屋号は受け継がれてきた。元々、理工系の世界を志していた伊藤だったが、時代の流れが自然と彼の目を家業に向かせるようになった。

「造船工学を大学で学ぼうと考えていたのですが、受験を控えた頃に社長を務めていた祖父が病床に倒れ、亡くなる間際に家を継ぐように命じられました。迷いはありましたが、ちょうどオイルショックによる造船不況の時期だったので、造船関係の仕事につける望みは薄い。それであればと文化系に移行して、学習院の経済経営学部に受かりました。その受験の日に祖父が亡くなったので、運命的なものを感じましたね」

大学を卒業して3年間、東京の文具店で修行したのち、鶴岡駅前の再開発に翻弄される状況を打開するために清川屋でのキャリアをスタートした。現在10店舗までに増えた清川屋の多店舗展開は、伊藤が帰郷した1980年代に始まる。

「いくつもの建物が建ち、古い建物の建て替えもあるわけですが、元々清川屋が営業をしていたビルの上の階に新しい物産館ができるなど、自分たちの思うようにだけ進むわけではありません。そうなると、ここだけではダメだと。それで、山形空港への出店を決め、また酒田の清水屋というデパートにも出店するなど、多店舗展開を進めました。通信販売を始めたのも、その流れですね。あくまでも対面での商売が基本ですので、実店舗での営業を補う形で通信販売を計画したのです」

商品に付加価値をつけ、その物語を消費者に届ける

例えばさくらんぼの「佐藤錦」。農家と契約し、甘みも風味も濃厚で、粒も大きなさくらんぼを生産してもらう。無農薬で、粒の大きさも揃った美しいさくらんぼを、無闇に値引きすることはない。もちろん、無駄に高く売るわけではない。手間暇をかけて手がけた生産者に敬意を払い、同時に、きちんとその一粒一粒のさくらんぼの背景にある物語を提示する。そうして、1粒500円の超高級なさくらんぼは誕生した。ぎっしりと粒が並ぶ箱詰めのさくらんぼは、贈物としても非常に喜ばれる高級な特産品となった。しかしそこに留まらず、伊藤はさらに挑戦を重ねた。

「小分けできるといいね、という声を聞いて、パックに分けて販売できないかと考えました。しかし、そうすると安いものに見られがちで、最初に小分けのパックを作った時は売れなかった。しかし、農家にお願いして最高のものを入れてもらえるよう交渉しました。そしてさくらんぼを日持ちさせるパッケージ素材ができたので、いくつもの小分けパックを慌てずに多くの人に土産として配っていただけるようになった。商品を値引きするのではなく、商品の付加価値をつけ、それを丁寧に伝えることで価格と商品価値を理解していただけると考えています」

伊藤が社長に就任したのは1997年のこと。彼が着手した革新的な取り組みのうち、最も規模が大きかったものの一つが、社内で企画開発し、新設した自社工場で生産するオリジナル商品の販売だ。

「清川屋の前身は、初代の勘右衛門が船着場でお茶を振る舞う茶屋でした。茶屋の勘右衛門ということで、茶勘の愛称で親しまれていたのです。そこで私たちが自社商品の製造を開始するにあたって、『茶勘製菓』という名前の自社工場を創業しました。自然が豊かで、豊富な素材や産物が眠っているわけです。その価値を世の中に提供するために、特産品の開発と販売を行おうと。そして、その商品に物語を待たせようと考えました」

最近のヒット商品である「山形のゆきどけ」を手に、そのコンセプトと美味しさについて話し始める。

「これは、つや姫100%の米粉を使ったチョコレート入りのクッキーです。まず普通だったら、つや姫を使うとしても10%か20%でしょう。もちろんお金をかければいいものができるかといったら、そういうわけではありませんが、開発の段階で色々と試さなければいけない。実際のところ、100%つや姫を使うとコストはかかります。しかし、比べてみると味は明らかに美味しい。そうであれば、少し値段が高くなるかもしれないけど、それに見合ったステージを作ってやればいい。『つや姫クッキー』というようなストレートすぎる名前ではなく、『山形のゆきどけ』という名称で、パッケージのデザインもそこにマッチする白くてシンプルなものに仕上げました」

素材選びからパッケージング、売り場のデザインまでも含むブランディングによって、商品価値を最大限に引き出すこと。その成果によって、山形県の物産を表彰する優良賞(最優秀賞に次ぐ賞)と、ベスト・パッケージ・デザイン賞という2つを受賞した。もともと、自社農園で栽培しただだちゃ豆によるだだちゃ餡を、和三盆糖を入れてしっとりと焼き上げた皮で包んだ饅頭「だだっ子」が定番商品として常に一番の売り上げを記録していたが、最近ではこの「山形のゆきどけ」が追いつきそうなほどに売れているという。

「商品をよく見せることももちろん大事ですが、それよりも、食べてすぐに“うまい!”とならなければ売れません。『山形のゆきどけ』は、無駄なつなぎを入れていないのでホロホロと崩れやすいですが、食べた後に絶対にコーヒーを飲みたくなる味と食感ですよ」

殿様が住む鶴岡の街に貢献するために

伊藤が新しいものに着手し続ける動機は、創業理念とシンクロしている。転機を生かし、新生し続ける「天の時」。駅や旅と関わり、人の動きと土地の変動を見続けてきた「地の利」。人間関係を大切にし、信用を育んできた「人の和」。

「要はチャレンジですね。計画、創造、挑戦、スピード、徹底、という5つのことを大事にしています。まずは具体的な計画を立て、実践するために創造、考えて新しいことを始める。それから実際に挑戦するのですが、そこにはスピード感も必要で、信じたことは徹底しなければいけない。その流れで仕事は完結すると考えています。地元のお客様に支持され、地域貢献できる企業であるために、地域性にこだわった本物志向で開発を続けていかなければいけません」

旅籠として営業を続けていた江戸時代。その末期には、文武両道の天才と呼ばれ、また、幕府が結んだ外国との不平等条約などによって未来を憂う庄内藩出身の志士、清河八郎が清川屋を定宿としていた。尊皇攘夷の理念を打ち出す先見性を持つ人物であり、その清河が将軍を外国人から警護する目的で招集した浪士組が、のちに意見が割れて新選組と新徴組となり、その新徴組の身元を引き受けたのが庄内藩主の酒井家だった。

「鶴岡市には現在も、殿様が生きています。酒井家の18代目、19代目です。江戸時代には、大名が土地で強い権力を持てないように、別の大名と領地の交換を命じられる『三方国替え』という幕府の発令があったのですが、庄内では住民である農民たちは酒井家を非常に慕っていたので、反対運動を起こして中止にしたんですよ。

年に2度ほど、酒井家の廟が一般公開されるんですが、そこには初代から17代までの墓がズラーっと並んでいて、圧巻ですよ。そして殿様の墓の後ろには、小さな墓がまたずらっとある。殿様が死んだ日に自決した家来たちの墓です。今では酒井家が建てた鶴ヶ岡城の本丸跡は 鶴岡公園 となり、殿様は三の丸に住んでいますが、鶴ヶ岡城を復興させてそこに住んでいただくことこそが、鶴岡に必要なことだと考えています。ハリボテの城を作るのではなく、今も住民が敬う酒井家への思いを改めて共有し、街に根付いた文化を継承していくこと。地域創生は、そのような形で行われて、初めて意義あるものが実現すると考えています」

「天の時」「地の利」「人の和」という創業理念は、時代と土地と人とに紐づいている。そのすべてに対して敏感であり、また同時に自ら謙虚であること。350年超の歴史を持つ清川屋を背負う伊藤の話には、庄内で育まれたそんな理性が垣間見えた。

清川屋 代表取締役社長
伊藤 秀樹 イトウ ヒデキ

1956年鶴岡市生まれ。1997年、実家である清川屋の13代目として社長に就任。山形県内の9店舗と宮城県仙台市の1店舗を展開するほか、自社工場の「茶勘製菓」でオリジナル商品の開発生産をなど、伝統を継承しながら革新を続けている。

株式会社 清川屋

鶴岡の地で、創始創業以来350年。茶屋、旅籠屋から、雑貨店、土産物店へと形を変え、【特産品文化創造企業】として現在に至っています。
〒997-0011 山形県鶴岡市宝田1-4-25