ヒト

伝統の継承と革新。
「三方よし」の精神で、
経済を、文化芸術を牽引する。

株式会社山形銀行

長谷川 吉茂

ハセガワ キチシゲ
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山形銀行の前身である第八十一国立銀行の時代から、脈々と受け継がれる地域に根差した銀行経営。伝統に学び、革新を続ける、第15代頭取の長谷川吉茂に話を聞いた。

「長谷川家と庄内地方の関わりは、江戸時代からはじまっていました」

開口一番、長谷川は言った。当時長谷川家は、全国に名を馳せた日本一の紅花商。紅花を全国各地へ流通させるため、酒田港から船を使って日本海を通り京都まで運んでいたのだ。

「規模こそ大きかったものの、長谷川家の紅花商としてのスタートはあまり早くありませんでした。そのこともあり、山形から少し離れた宮城仙南の紅花を扱っていたのですが、当時は陸路の運賃が大変に高かった。仙南から江戸へ運ぶと、船で京都へ運ぶよりも運賃が4倍もかかったといいます。奥羽山脈を越え、最上川経由で酒田港から出荷する方が遠回りに感じますが、コストは圧倒的に安かったのです」

コストを優先し、流通方法を選択する。そんな、商売人としては当たり前の判断が、山形銀行の経営における柱であり、多くの山形商人に受け継がれている大切な理念との出会いをもたらすことになる。

売り手よし、買い手よし、世間よし。西日本との交易をともに支えた近江商人が大切にした「三方よし」である。その理念に共感した長谷川家は、東北では流通量が少なかった良質な塩を一大産地である瀬戸内から仕入れて販売するなど、さまざまな物資を東北にもたらし暮らしを支えた。その鍵となった最上川経由の海上運輸が実現できたのは、自然と共存していたからこそ。自然を敬う精神に三方よしの理念が重なり、より多くの人の暮らしを支えるための金融事業へと発展し、第八十一国立銀行の経営に参画。長谷川家の山形銀行頭取としての歴史がはじまったのだ。

地域のために進化し続ける経営

長谷川が山形銀行に入行したのは1985年、35歳の頃だ。高校時代に天文学者の道を志し東京大学に進学したが、東大紛争真っ只中の学生生活を送るうちに社会学への関心が高まり経済学部へ転学、金融論を学んだ。卒業後は、「親の力を借りずに偉くなる」と住友銀行(現・三井住友銀行)に入行。12年目を迎えた頃、12代頭取であった父・吉郎さんが倒れ山形へと戻ることになる。
さまざまな巡り合わせがあったから。長谷川が山形に戻ってきた理由を、こう見ることは間違いではないだろう。しかし、代々地域のために尽くしてきたDNAに必然的に導かれた、というのが実際のところではないだろうか。頭取として銀行を経営していく上で、長谷川が大切にしていることを聞き、そう考えるのが自然だと感じた。

「1つは、ダーウィンの進化論です。大きくて強い恐竜が滅びてしまっても、小さな哺乳類が生き残ることができたのは、変化に適応してきたから。企業も同じで、いくら規模が大きくなっても環境の変化に適応できなければいずれ立ち行かなくなります。社会の変化に適応し、新しいものを生み出し続けていくことが必要です。2つ目は、『不易流行』という松尾芭蕉の言葉。何を変えて何を残していくかを常に考え判断しながら、変化し続けていくことを心がけています。3つ目は、『Forward Looking Posture』という言葉。過去は明日のためにある、いつも前を向いていこうということですね」

刻々と変化する社会に目を向け、何が必要とされているのかを見極め、新しいものも取り入れながら地域の未来のために力を尽くす。「三方よし」の精神は、「地域経済の活性化なくしては銀行の成長発展はない」、「地方の時代をつくる」という思いとして、現代にしっかりと受け継がれているのだ。

東北随一の文化芸術をつないでいく

DNAの導きがあるのは、仕事においてだけではない。山形美術館評議員、山形交響楽団理事を務めるなど、地域の文化芸術活動の継承と発展にも力を入れて取り組むのは、やはり西日本から多くの書や美術品などを持ち込み、山形県に東北随一の国宝や重要文化財をもたらすことに貢献したという伝統の継承と革新からだろう。現在、特に情熱を傾けて取り組んでいるのは、美術と茶道だという。

「季刊『やまがた街角』に、長谷川家の美術品のコレクションをテーマに連載をしているのですが、最近70回を超えました。私自身相当本を読んで勉強を重ねながら、執筆を続けています。山形美術館の学芸員の方々が教材にしてくださっているそうで、とても嬉しく思いますね。
茶道の方は、裏千家淡交会の山形支部長、東北地区長を務めさせていただき、山形県人としては初の今日庵老分に就いています。第15代家元の千 玄室 大宗匠ともお付き合いがありますが、95歳を過ぎても元気に前向きに生きている姿勢は、本当に尊敬しています。彼からいただきとても大切にしている「無事是好年」という書があります。これは「好年」は願って得られるものではなく、目の前の時間にしっかりと向き合い1日1日を大切に過ごすことで迎えることができる、ということを意味しています。年頭メッセージとして当行全役職員にも伝えている、公私ともに大切にしている言葉です」

未来へつながる教育を、山形県から

長谷川の生き方からは、一族の血筋を受け継ぐ宿命と、時代に合わせた伝統の解釈と革新がうかがえる。かつて交易拠点としてその事業を支えた庄内の地に、どんな思いを抱いているのだろう。

「急流最上川が大量の水を庄内の海へ入れる勇壮さは見事であり、一県で完結する大河を誇りに思います。松尾芭蕉が「暑き日を 海に入れたり 最上川」と詠むにいたった景観は、今もそのままでしょう。それら大自然が育む恵みによって生み出される日本酒など、食の豊かさは本当に素晴らしいですが、私が1番に期待しているのは、「未来へつながる教育」です。山形は元来教育熱心な県であり、庄内には「藩校致道館」があった。多くの藩校が朱子学を藩学とする中、致道館は生まれ持った能力を大切にし、優れたところを伸ばしていく「徂徠学」を藩学としました。この考えが根づいていた土地だからこそ、慶應義塾大学先端生命科学研究所とも親和性が高く、そこから数々のベンチャーが生まれているのだと思います。次世代の育成にも力を入れていることも大変嬉しいことです。地域を越えて連携し、ともに山形県から東北を、日本を盛り上げていきたいですね」

そう締めくくった力強い眼差しは、いつでも山形の明日を見据えている。

株式会社山形銀行
長谷川 吉茂 ハセガワ キチシゲ

1949年、山形銀行12代頭取を勤めた長谷川吉郎の長男として、山形市に生まれる。山形県立山形東高等学校を首席で卒業後、東京大学理科I類に進学。その後経済学部に転学し金融論を専攻。卒業後、住友銀行(現・三井住友銀行)勤務を経て、1985年に山形銀行に入行し、2005年6月より現職。金融分野にとどまらず、芸術文化団体の理事や評議員も務め、2013年には藍綬褒章を受章している。

株式会社山形銀行

1878年創業の第八十一国立銀行を起源とする、山形県のトップバンク。経営者とビジョンを共有し、ともに実現に向かうことを大切にするなど、地元企業と一体となり地域の成長戦略を推進している。